航海者列伝 大航海時代は、ポルトガルのエンリケ航海王子のアフリカ沿岸航路への挑戦によって始まったと言われます。エンリケ王子は、1418年から幾度となくアフリカ沿岸の探検航海を派遣します。当時、現在のカナリア諸島の近くに位置し、世界の果てと信じられていたボジャドール岬以南の海は、船乗り達に怖れられていました。この岬より南の海には怪物が潜み、海は煮えたぎり、そしていったん岬を越えれば二度と戻ってくることができないと考えられていたのです。ながらくこの岬を越えることができなかったのですが、エンリケの命を受けたエアネスが、ついに1434年にボジャドール岬を越えることに成功します。以後、徐々に航路を南に拡げ、エンリケが亡くなる1460年には現在のシエラレオネまで達していました。エンリケの死後、いよいよ歴史に名を残す航海者が活躍することになります。左の地球儀を参考に、彼らの航海を簡単に見ていきましょう。 バーソロミュー・ディアス(1450頃-1500) 1488年、ポルトガルの航海士バーソロミュー・ディアスは三隻の船を率いてアフリカ沿岸を南下している時に大嵐に会い、2週間近く漂流して南に流され、気づかないうちにアフリカ南端を通り過ぎてしまいました。いつもなら東に進むと見えてくるはずの陸地が見えてこないために、船を北上させたディアスは幸運にもアフリカ南端を発見します。こうしてヨーロッパ人はインド洋への入口を発見し、プトレマイオスの世界図の外側に出ることができました。エンリケ航海王子が最初の船を送り出してから70年が経過していました。 ヴァスコ・ダ・ガマ(1469頃-1524) ディアスの航海で喜望峰を発見したポルトガルが次に目指していたのは、香辛料がふんだんにあるインドでした。この重要な航海に抜擢されたのがヴァスコ・ダ・ガマ。1497年7月8日、リスボンを4隻の船が出航しました。ガマはなぜか、それまでの沿岸航路ではなく、大きく陸地を離れた航路を選んでいますが、この理由はわかっていません。ヨーロッパ人として初めて喜望峰を越えて、アフリカ大陸東岸を北上し、翌98年5月にカリカットに到着します。カリカットの王様への献上物があまりにお粗末で受け取ってもらえず、大恥をかきましたが、なんとか胡椒を買って帰国。この胡椒が莫大な富を産むことになります。その後、ポルトガルはカリカットの隣国コチンと友好条約を結び、ここを拠点にインドに勢力を伸ばしていきます。 クリストファー・コロンブス(1451頃-1506) コロンブスはトスカネリの地球球体説に影響を受けて、大西洋を横断すればインディアス(当時、アジア、ジパング、インドを含む大陸インディアスがあると考えられていました)を発見できると考えました。この航海のアイディアをスペインのイザベル女王に売り込み、2度にわたり却下されるものの、最後になんとか援助を勝ち取ることに成功します。1492年8月3日にスペインの港町パロスを出航し、北緯28度線に沿って船を西へ西へと進めました。陸地を見ながら沿岸を航海する航法が主流だった時代に、北極星の高さを頼りに陸の見えない海を航海することは大変な勇気が必要でした。船乗りたちの不安と焦りを抑えながら2ヶ月間にわたる航海を経て、現在のバハマ諸島にたどり着きます。コロンブスは(現在の)キューバを黄金国ジパングと勘違いしたまま帰途につき、スペインの王都バルセロナに凱旋します。その後3回の航海を行いますが、植民地経営に失敗し、評価はがた落ち。最後は失意の内に亡くなったそうです。コロンブスは死ぬまで「インディアスに到達した」と信じていました。 フェルディナンド・マゼラン(1480頃-1521) スペイン王・カルロス1世の支援を受けて、1519年9月20日、旗艦トリニダッド号をはじめとする4隻の船が265名の乗組員と共に、サン・ルーカル・デ・パラメダ港を出港しました。途中、幾度かの反乱が起きるなど苦難続きの航海でした。反乱を鎮圧しながら航海を続け、南アメリカの南端に海峡を発見(マゼラン海峡)し、ついに太平洋に乗り出します。しかし太平洋は、その頃考えられていたよりもはるかに大きく、100日間にわたって食糧が補給できず、乗組員は飢えと闘う地獄のような航海になりました。1521年3月にようやくフィリピンに辿り着いたマゼランは、キリスト教の布教に励みますが、これに反抗した現地の酋長ラプ・ラプと戦闘になり、敢えなく戦死。逃げるように出航したビクトリア号とトリニダッド号は、その年の11月に目的地だった香辛諸島(モルッカ諸島)に到着します。香辛料を積み込んだあと、破損したトリニダッド号を置いて、ビクトリア号だけが喜望峰をまわり1522年9月にスペインに帰還し、世界一周航海が達成されます。初めて地球が丸いことを証明した偉業でしたが、帰国した時、265名だった乗組員は、わずか18名で、しかもほとんどが病人同然で衰弱しきっていたといいます。 フランシス・ドレーク(1543頃-1596) マゼランの航海から半世紀が過ぎた頃、イギリス屈指の大海賊としてならしたフランシス・ドレークは、太平洋の遠征航海を夢見ていました。エリザベス女王に謁見し、太平洋探検の名のもと、スペイン植民地の襲撃という密命も受けて、1577年11月、武装した5隻の艦隊を率いてプリマス港を出港。マゼラン海峡を経て、南北アメリカ大陸の西側に沿って北上しながら、海賊らしく、沿岸のスペイン植民地や船を襲い、多くの金銀や装飾品を奪います。その後、太平洋を横断してモルッカ諸島で香辛料も積み込み、インド洋から喜望峰を経て、1580年9月にイギリスに帰国します。5隻の艦隊のうち、残っていたのは旗艦ゴールデン・ハインド号だけでした。しかし、略奪した財宝は、当時のイギリスの国庫歳入を上回るほどのものだったことから、ドレークはその功績によりナイトの称号を与えられています。ドレークは、自ら企画し、船を率い、そして生きて戻ってきたという意味では、世界で初めて世界周回航海を成功させた航海者と言えるかもしれません。 |