人間の時間、地球の時間
人と時間を巡る長い歴史の末、1967年に「1秒」の定義が地球の自転や公転に基づくのではなく、セシウム原子の振る舞いによって決められることになり、ほぼ「一定不変」のものとなりました。(自然の時間とのずれは、閏秒で調整されています)。
でも自然界の時間は、そもそも一定でも不変でもありません。この一定ではない自然の時間を、合理的な人工の時間に限りなく合わせようとしてきた。それが時間を巡る人間の歴史だったのです。
人間は、自分たちが作った時間という単位を使って、文明を築いてきました。列車や飛行機が遅れずに運行できたり、あらゆる人が「時計」や「カレンダー」を使って共通の「日時」や「時刻」を知ることができたり、コンピュータや機械が間違いなく動いたり、といったことは時間のルールがあるから可能です。
ひとつの国だけではなく、世界共通の概念となったことで、国が違っても「時間」を同期させることができます。現在の文明が破綻せずに成立しているのは、世界中の人が共通して認識できる時間の概念があるからだと言っても過言ではありません。もしもこの認識が個人によって、国によって、バラバラだったら世界はもっと混乱していることでしょう。
でも、この時間の単位は、人間の文明を支えるのにはとても便利ですが、自然と調和した生き方をするにはむしろ不便な気がします。
自然の周期は、地球がくるくる自転したり、地球のまわりを月が巡ったり、太陽の周りを地球が回る公転によって生まれていますが、地球は同じ素材が一定の密度で満たされた球体というわけでもなく、月の軌道も地球の軌道もコンパスで描いたような真円ではありません。確かに周期はあるけれど、一定の速度で動いているわけではないし、揺らぎがあります。人間以外の動物や植物は、人間が作った時間の概念は全く知らずに生きていますし、人間も夜になると睡眠が必要になるなど、自然の時間と密接に関わりながら毎日を生きています。最近では体内時計を司る遺伝子の存在も明らかになり、人工の時間と体内時計のズレが現代人のストレスを生んでいるという指摘もあります。
かつて、日々の自然の変化を繊細に読み取り、自然と向き合う知恵を育んできた時代、人間の暮らしと自然の営みはもっと身近でした。いつからか、人は自然をコントロールできると勘違いするようになってしまいました。機械のようにチッチッと正確に刻む時間の概念は、人間中心の合理的な世界観を作りだし、自分たちの都合で自然を破壊しても平気になってしまったのです。
自然と調和しながら生きていく時代が再びやってきます。人間が作った時間は便利ですが、それに頼り切ってしまうのではなく、揺らぎながら変化していく、本来の自然の時間、地球の時間を思い出すことも大切なのではないでしょうか。その意識を取り戻すことが、自分自身の人生の豊かな時間を生み出すことにつながると思うのです。
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