MINAMATAと聞いて何を連想するでしょう? 人口約3万人、面積162.6 km2の九州のなかでも決して大きいとはいえない地方都市は、水俣病の町としてあまりにも有名です。その水俣が、環境先進都市をめざしていると聞きました。「公害病」といえば、とかく暗いイメージがつきまとうものですよね。でも、人から話を聞いたり、「エコタウンみなまたの歩き方」なんていう本を読んでいると、『水俣だけが経験をしたことを将来世代に生かす』と、そのイメージをプラスにとらえている街づくりの様子が見えてきました。
目次へ移動 水俣病について
九州 熊本県の南、鹿児島県と境を接し、有明海に面する小さな農漁村だった水俣。 日本の化学産業の草分け的存在であったチッソ株式会社の工場から海に流された排水にメチル水銀*が含まれていたことから、この地域で痛ましい出来事が起こりました。メチル水銀で汚染された魚や貝を食べた人々が、中毒性の神経疾患にかかり、多くの人が亡くなったり、不自由な身体を背負って生きていかなければならなくなったのです。
そこには、病気に対する情報が正しく伝わらなかったことからくる差別や偏見によって、地域での付き合いを絶たれてしまった人々がいました。また、かつての水俣が、チッソという一企業によって経済の大部分を支えられていた企業城下町だったため、チッソを相手に責任の追及を行う患者さんとその支援者に対して快く思わない人たちもいて、街の人間関係、信頼関係が崩れてしまいました。
この事件は「水俣病事件」と呼ばれ、一企業と被害者間の問題だけにとどまらず、国や県、水俣に住む多くの人々を巻き込んでいきました。
水俣病については、下記URLのページをご参照ください。名前だけは知っていても、意外と水俣病に関するきちんとした事実を知らなかったんだなーと、気づかされます。
* メチル水銀について
http://www.eic.or.jp/ecoterm/?act=view&serial=2546
水俣病の基礎知識
入門編:水俣病について知っておいてほしいこと
http://www.soshisha.org/nyumon/kisochishiki.htm
詳細編:「水俣病10の知識」
http://www.soshisha.org/nyumon/10tisiki/10chishiki_j_frame.htm
水俣病の歴史
http://kumanichi.com/feature/minamata/
http://www.minamata195651.jp/list.html
目次へ移動 生活の中に事件があった
昨年(2000年5月)水俣で行われた環境自治体会議の特別セッションのテーマは「水俣病の経験から=生活の中に事件があった=」でした。患者さんにとって水俣病とは、病気の苦しみだけでなく、水俣市の人口の多くを占めていたチッソ関係者との人間関係の亀裂、行政との対立、地域の中での差別と偏見による孤独をもたらしました。そして、それらはすべて、いつもどおりに海で採れた魚を食べていたら起こってしまった「日常に突然やってきた"事件"」だったのです。
事件は、あたりまえの日常の中にじわじわとやってきて、日常を一変させてしまった・・・だからそれを元に戻すのも、日常=足下から・・・それが水俣の再出発の第一歩でした。
今回、水俣にお伺いするにあたって、水俣市の吉本哲郎さんからいただいたメールの一部を紹介します。(一部抜粋)
水俣の取り組みは足下からです。水俣病の患者に会って話を聞いて仕事に反映する。地元の自然に耳を傾けて問いを発し、自分の言葉で語り、役立てていく。これだけです。
目次へ移動 "もやい直し"とエコタウンづくり
水俣が過去の経験をふまえ、未来へ向かって本格的に動き出したのは1990(平成2)年頃から。91(平成3)年から「環境創造みなまた推進事業」がスタートし、市民が互いに話し合って水俣病によって引き起こされた様々な問題を乗り越え、約10年間、時間をかけて水俣の再生に取り組んできました。
この環境先進都市を目指す取り組みは、「もやい直し*」といっしょに進行しました。対話と協働作業を通じて、水俣病が原因で分断されたコミュニティを復活し、人々が地域への愛着を取りもどし、環境先進都市へと生まれ変わってきています。
当初、水俣病の患者さんや患者支援団体とそうでない人や行政の間には、お互いに対する不信感がなかったとは言えないそうです。それを少しずつ「もやい直し」ていく作業を行っていきました。水俣市役所の吉本さんは言います。「対立した相容れないものを変えていくには、会って、話して、お互いのことを知り、認め合うことだ。」
吉本さんが、水俣病患者の支援者組織、相思社に行って、"対話"を試みたときのことを話してくださいました。相思社の人は「行政は敵だ!話をすることなどない!」と、突っぱねようとしたのです。これまでは、それでだいたい帰ってしまうところ、吉本さんは「俺は何も悪いことしとらん。確かに市として、足りないところもあったかもしれないが、精一杯やってきたことだって事実だ」と、言ったそうです。
相思社の人は驚き面食らいながらも、これをきっかけに対話が生まれ、少しずつお互いの信頼関係を築いていったのです。市が相思社に委託して、水俣病事件の経緯をまとめたこともありました。「今でも見解の違うことはもちろんあるけど、違ってもいいんじゃないか。お互いの立場で協力できることをやっていければ。」と相思社の遠藤さんは言います。また、相思社の一番の目的である「水俣病の患者さんが地域に受け入れられる手助けをする」ということと、「水俣病の教訓を語り継ぎ未来へ向かう街作り」は同じことだ、と相思社の弘津さん。
「距離を近づける」「話し合う」「対立のエネルギーを何かを作り出すエネルギーにかえる」これがもやいなおしの原点なのです。
水俣の市報には、ごみの分別のことや環境にこだわったものづくりをしている職人さん「環境マイスター」に認定された人の紹介など、たくさんの情報が発信されています。また、環境にいい店づくりをしている店舗を認定した「エコショップ認定」(現在12店舗)や環境にいい暮らしづくりを推進する「家庭版ISO制度」(登録世帯は79世帯)、学校における環境教育の一環で行っている「学校版ISO制度」(小学校9校、中学校7校全校で実施)などなど、様々な年代の人が関われるようなしくみづくりをしています。
取り組みのネーミングのひとつひとつ、アイデアのひねり加減は大切です。私が伺ったときも、吉本さんが『う~ん、ばあちゃんのところにきて田舎暮らしの知恵を教わりたいっていうのがいるから、"生活見習い"と名付けようか・・・などなどアイデアをめぐらせておられました。
また、市報に書かれている市長のコラムのページからも、水俣病を語り継ぎ、環境先進都市を目指すそうというお気持ちがよく伝わってきます。中国の南京虐殺資料館を訪れた時の話がこんな言葉で締めくくられています。『館内の壁に「前事不忘、后事之師、以史為鑿」と大きく書いてありました。(「過去を忘れず、教訓として生かし、歴史に刻んで、未来を創造しよう」という意味でしょうか)南京の惨事も、水俣の悲劇も、ともに二度と繰り返してはなりません。』(広報「みなまた」2001年6月1日号より)
もやい館のボランティアセンターで働く20代の女の子は、「なんだか行政が一生懸命やってるし、今やってることがだんだんあたりまえになってくるんじゃないかなー」といたって自然体で受け止めていました。
*もやい直し
"舫(もやい)"とは船と船を繋ぐ紐のことです。「もやい」を人と人の絆にみたて、水俣病によって壊れてしまった絆を、水俣病と正面から向き合い、話し合い、協働作業を行うことでつむぎなおそうという意識改革の動きを「もやい直し」と言っています。
目次へ移動 な~んにも難しいことはないさ!の資源回収現場
水俣の資源回収のシステムを簡単に説明しましょう。
資源回収のしくみは国や地域によって様々なので、「水俣ではこうやっています」という事例紹介ですが、その徹底した分別ぶりとあたりまえぶりは特筆すべきものがあります。
資源回収は平成5年(1993年)から始まりました。26の行政区・約300箇所の回収拠点を市のクリーンセンターの職員が回収して廻ります。「燃やすごみ」の収集は週に2回、廃プラスチックは月2回、その他の資源・有害・粗大・埋立ごみは月に1回の回収です。その分別種類数は23分別。ビンを6種類、紙類が4種類、スチール、アルミからペットボトル、布類などに細分化されています。
さて、実際に収集現場を見せてもらうことにしました。
ずらりと並べられたコンテナにそれぞれ品目が書かれた札が下がっています。そこに地区のリサイクル推進員と当番の方がはりついて、回収のお手伝いをしています。中学生も手伝っていたので聞いてみたら、「学校でリサイクル委員をやっているんだ」そうです。
回収場所に来るのは大人ばかりではありません。お母さんに連れられてきた幼稚園生くらいの子は、「ね~、これはどこ~?」と聞きながらお手伝い。少しひびが入っている水筒を見つけると、「これまだ使えるよー」と、再び家に持ち帰ろうとしています。水は入れられないけど、子どもの遊びにはじゅうぶん使えそうです。中学生くらいの男の子は、袋にいっぱいのアルミ缶や雑誌を持ってきていました。大きなビニール袋や麻袋に入れてくる人、道路工事の時に使うような一輪の手押し車に乗せてくる人、自転車のかごに乗せてくる人など、それぞれです。
一人暮らしで働いていて、収集時間に持ってこられない人はどうするのだろう?と、聞いてみました。「そういう人は、近所の人に一緒に持っていってもらったり、その時間だけ仕事を抜けてくるんだよ。」とのこと。困ったときはお互い様の精神が生きてるんだなー。 こうして収集の現場で交わされる会話もまた、人と人、地域と地域のつながりを紡いでいるのですね。
こんなに整然とした収集風景を目にしても、吉本さんは「なーんにもすごいことなんかあるもんか。」と言います。収集にきてる人たちもすっかり慣れた手つきです。 なぜでしょう?この資源回収を始めるにあたって、市の職員さんは各行政区や団体を約300回、1年かけて説明し、分別の指導をしてまわったそうです。また、収集時間の設定や細かいルールは、住んでいる人たちがやりやすいように、各区の自主性に任せています。自分たちで決めたんだからできるという、責任感と自信が自ずと生まれているようです。最初の第一歩を踏み出すにまでは、きちんとした情報公開と納得のいく説明があってこそなのですね。
ちなみに、水俣の分別収集は全国的にも有名で、他の地域からの見学者も多いそうです。韓国など、海外からの見学者もいるとか。。。住民のかたはそんな見物には慣れっこといった感じで、写真を撮っている私のことなどお構いなしに、「これどっちー?」「あー、それはここだって!」と分別にいそしんでいました。
目次へ移動 グリーンツーリズム ~ プラスも財産・マイナスも財産 ~
今回の水俣行きで一番驚いたのは、山・川・海と、三拍子そろった水俣の姿でした。 もともと海の恵みが豊かだったということは、その海に栄養を運ぶ川があり、その栄養を作り出す山があった、ということなんですね。水俣病が海に流された排水が原因で発生したということもあり、長い間、人々の目が海に向いていたのは事実のようで、私だけでなく、水俣に住む人々の中にも、地域に残された自然や文化、産物などを再確認し、1枚の絵地図にまとめる「地域資源マップ」作りに関わって、はじめてその存在・価値を認識した人もいたようです。
水俣を訪れて2日目の夜、山道を車でぐんぐん登って連れていっていただいたのが、「石飛」という集落。そこには、無農薬のお茶作りをする天野さん一家が小屋を建てていて、人々が集う場所を提供しています。私が行ったのは7月の中旬だったのですが、夜ともなると涼しくて、囲炉裏のお世話になるほどでした。夜の散歩にでかけると、満点の星。何年かぶりに蛍の群れに出会えてただただ感動!!道端に寝転がって、めったに使わない五感をとぎすまし、においや映像、肌の感触を身体に焼きつけました。
かつて水俣病の患者さんが大勢いた「袋」という集落にも案内してもらいました。港では岸壁から海に飛び込んで遊んでいる真っ黒に日焼けした子供たち(水着を持ってたら混ぜてもらったのに...)。そのそばには海の安全を祈願して海の神様が鎮座ましましています。そして、山のほうを見上げると、三角の形をした頂上をちょこんと覗かせている山があります。海を生活の場とする人はかつてその山の上に祠(ほこら)を作り、神様を祭ったそうです。山と海のつながりが見えたような気がしました。
水俣では海・山・川の財産をみんなで共有し、伝えることができる人が育ち、農林漁業を営んでいた人たちが、進んで自然の恵みを生かした作物作り、漁を目指すようになり、それが水俣にとって大切な資源だと認識して後押しする行政の姿があります。 そしてそれを、水俣病の教訓とともに、将来に伝えるためのとりくみ・・・グリーンツーリズムが始まっています。80年代初めからほとんど来なくなった修学旅行生が、市の誘致の成果もあり、ここ数年は250人~300人/年。企画・運営をしているのは、かつて行政とは口も聞かなかった相思社の人たちです。
目次へ移動 未来へ
水俣病があったからこそ。今の水俣があります。
世界でもまれな体験をした街、それを語り継いでいくのはそれを体験した自分たちの役目だとさらりと言ってのける人たちがいます。
来る2001年10月20~21日、第6回世界水銀会議が開かれます。水銀汚染を実際に経験した街で行われる会議です。参加者は、説得力のある事例を見ることができるでしょう。
会議に合わせて、水俣病の事実を語り継ぐために活動している「水俣フォーラム」主催の『水俣病展』も開催されます。
水俣病という体験に基づく世界への情報発信を「このような悲惨で愚かな事が世界のどこにも二度と繰り返されないように、水俣の経験を発信し環境問題で国際的な貢献ができるまちになりたいと願っています」と、市長は表現しています。また、かつて水俣病対策を担当された環境省の小島敏郎さんも『"水に流す"とよく人は言うが、水俣で起こったことは水に流してはいけない、忘れてはいけない。水俣のマイナスの遺産(=水俣病)もプラスの遺産(=海・山・川・人)も財産なんだ。』とおっしゃっています。
目次へ移動 お話をお伺いしていて・・・
皆さんが共通して言っていたことは次のようなことだったと思います。「過去の出来事を"あのときはこうすべきだったこうすべきだった"と、掘り返してばかりいたら前に進まない。起こってしまったことは事実として語り継ぎ、将来二度と悲劇が繰り返さないためにはどうしたらよいかを考えるべき」。こうした言葉を聞くたび、97年に訪れた欧州連合(EU)で「本当にEU統合はできるのだろうか?」という私の問いかけに対し、ある人が「やらなくてはいけないし、できると思う。過去、何百年にもわたる戦争で、多くの犠牲を払ってきているから」と答えたのを思い出します。どちらも「まさにその通り」という言葉なのですが、実際に身をもって、あるいは歴史的に体験をしてきた人の一言はぶれることのない、決意を感じさせてくれます。自分の足下から考え、動いていくことが、何よりも説得力のある行動につながるんだなという、当たり前のようで難しいことをみなまたの人たちに教えられたような気がします。
グリーンツーリズムに関する本
関連URL
水俣市ホームページ http://www.minamatacity.jp/
水俣病センター相思社 http://soshisha.org/
水俣フォーラム http://www6.ocn.ne.jp/~mf1997/
愛林館 http://airinkan.org/
熊本日日新聞 水俣病百科 http://kumanichi.com/feature/minamata/
国立水俣病総合研究センター http://www.nimd.go.jp/index.html
第6回水銀国際会議
※関連ニュース記事
http://www.eic.or.jp/news/?act=view&serial=1277
みなまたチャチャネット
http://www.minacha.net/
2000年度「市民のための環境公開講座」
=日本の公害-公害の原点・水俣病から学ぶ=
http://www.sjef.org/kouza/envglect/env_02.html
取材・写真: Think the Earthプロジェクト 原田 麻里子