2004年の暮れも押しせまった12月26日、インドネシア・スマトラ沖でマグニチュード9.0の地震が発生し、その直後に大規模な津波がインド洋沿岸10カ国以上の国々を襲いました。死者・行方不明者は28万人に達し(2005年3月現在)、人の力など到底およばない自然災害の無差別な破壊力の前に、あらためて“地球に生かされている”ということを考えさせられました。3カ月後の2005年3月28日にも、同じスマトラ沖を震源とする大きな地震が起こり、被災地が広がっています。
Think the EarthプロジェクトのNGOパートナーで、国際協力NGO(財)ケア・ジャパン(2005.7〜・(財)ケア・インターナショナル ジャパン)事務局長の野口千歳さんは、同会が行うプランテーション居住者生活改善事業でスリランカを訪れている時に、津波を経験されました。
そこで、野口さんに、津波の直後から被災地で緊急支援活動をした経験とそこから見えてきたこと…いかに人間が内面的に生きる力を持っているかということ、それを国際協力NGOがどのような形で支援していくべきなのかということ…をお話いただきました。
スリランカ:津波の影響を受けた地域
■深刻な被害 ■軽度の被害 ■被害なし ●ケアの活動地域
目次へ移動 海がふくらんできた
スリランカは、インドの先にある、涙型の島です。今回の津波で、北はジャフナから東はバティカロアとトリンコマレーの辺りから南のゴールまで、全部被害を受けました。
被害状況を数字で見ると、亡くなった方々が約31,000人。被災民となった人が50万人。全壊した家が78,000戸で、部分崩壊が 40,000戸となっています。
南のゴールという町から首都コロンボ寄りに行ったところの海岸の高台に、私たちが泊まっていたホテルがありました。岩が、だいたい7m-10mくらいの高さでまわりを囲んでいました。
津波の前日のクリスマス、12月25日の夕焼けは、本当に、何も来るとは思えないような非常に美しい夕焼けでした。
26日の朝9時半頃、ちょうどバルコニーで珈琲を飲みながら外を見ていたときに、海がだんだんだんだんふくらんできて、何か異様な感じがしたんですね。(今回の津波は)場所によってその見え方が違ったと言われておりまして、私どもは、海がふくらんでいるように見えました。
そして波がどんどん荒くなってきまして、「ドーン、ドーン」という感じで、3つ目の大きな波が高台にあったホテルのロビーにまで上がってきて、ホテルの周りを囲んでいた岩も完全に水に埋もれてしまって見えなくなってしまいました。15分くらいしたら水が引いていってしまったので、「何が起こったんだろう?」という感じでした。
これだけひどかったので、何人か亡くなった人はいるかもしれないと思っていましたが、波が来たときにホテルのジェネレーターが浸水してしまい、テレビもラジオも電話も繋がらなくなってしまったので、すぐには状況が把握できませんでした。
ようやくBBCのニュース映像が入り、水が人も電車もバスも飲み込んでいくのをテレビで見たときは、まさかこれが自分のすぐそばで、回りでおきているというのは、想像がつきませんでした。結局、ホテルの外に出ることができたのは次の日でした。
目次へ移動 信じられない光景
ホテルからようやく出たときに目に入ったのは、学校があった場所に煉瓦だけが残っている光景でした。全部波に飲み込まれてしまったということで、本当に信じられない光景が目に入ってきました。
煉瓦とかコンクリ、鉄がグニャグニャになってしまっていて、いかに水の勢いというものがすごかったかということが理解できました。
津波から2日後、28日の午前3時頃にようやく首都コロンボに着きました。普段は2時間くらいのところを8時間半かけて、畑の中を抜けていくような道を通っていきました。そのまま次の朝に、東海岸の被害が非常に大きかった地域に行って視察と支援活動をしてきました。
バティカロアのとある村は、95%位の方が亡くなって家も全壊してしまい、残っているのは家の跡だけという状況でした。井戸も汚染されていました。しっかりできている家でもがたがたになっていました。これだけ大きな津波は誰も想定していなくて、「水はもう一生見たくない」と思っているところに、3日間、車で走っていても前が見えないような大雨が降り続き、残っている家にも浸水していました。
目次へ移動 自然災害は人を差別しない
今回スリランカでは、津波によって北から南まで全部被害を受けました。スリランカの多数派住民はシンハラ人で、人口の70%くらい。だいたいが仏教徒です。
この他、タミル人のクリスチャン、ヒンズー教の人がだいたい18%くらいで、ムスリムの人が数%、あとはマレー人です。その人たちすべてが影響を受けたんですね。
コンクリートでできたヒンズー教の寺院が、海から波が押し寄せてきてまっぷたつに割れていたり、建物の表だけ残って後ろの方はなくなってしまったキリスト教会があったりしました。また、お寺も流されてしまい、住民が仏像を守る囲いのようなものをつくっていました。
キリスト教だろうとヒンズー教だろうと仏教徒だろうと関係なく、民族もシンハラ人だろうとタミル人だろうとムスリムだろうと関係なく、無差別に被害が及んだということです。
私が訪問した中で辛かった場所のひとつは、トリンコマレーのキニアという町の病院です。145人くらいの患者さんと10人くらいのスタッフがいたそうなのですが、唯一助かったのは、先生ひとりということでした。
ドアに、水がどこまで浸水していたかがわかる跡が付いていたのですが、だいたい大人の背の高さまであるんですね。そこまで一気に水が上がってきたので、逃げる間もなかったのです。
68人くらいの子ども達がいた孤児院でも、全員が亡くなったそうです。
スリランカはタイやインドネシアに比べて遺体を収容するのは早かったそうなのですが、数日後に訪れた東部ではまだ、ボランティアが、遺体や動物の死体が埋まっていないかどうか、探していました。
目次へ移動 被災した人たちに話を聞く
被災現場を見るだけではなく、実際にどういう経験をしたのか、難民キャンプ(避難キャンプ)で聞きました。ほんの数秒の差で自分の子どもを救えず、目の前で波に飲み込まれていくところを見た漁師さん。4人の子どものうち、3人を失ったお母さん、逃げる途中で体中に傷ができた女性など、外から来る人に対して、とにかく自分の話を聞いてくれという人たちが多かったです。
村全体みんな同じ経験をしているので、誰に話しても、相手も辛い思いがあるからそんなに心を打ち明けることができず、私たちにとにかく話を聞いてくれという人が多かったです。
目次へ移動 支援を必要としている人たちがいるから
被災地の誰もが、全部を失ったか、あるいは誰かを失ったという状況でした。津波の2日後に活動を始め、夜も寝ないで動き続けて、はっと気がついたら1月1日になっていました。お祝いをするような気分ではなかったのですが、ケアの地域事務所のディレクターが追悼式を行おうと提案し、ろうそくでお祈りをしました。
ケアのスタッフひとりひとりが被災者でもあるんですね。自分の親戚を喪ったり、家が浸水していたりする人がほとんどだったんです。家が全壊した人もいましたし、友達を亡くした人もいました。一方で、もっと自分たちの支援を必要としている人たちがいるから、とにかくみんなで力を合わせてやっていこうという、元気づけの儀式でもありました。
目次へ移動 災害を乗り越えようと市民がひとつに
今回、私自身も非常にびっくりしたのは、津波が起きたその日に、スリランカのふつうの人たち、一般市民がとにかく困っている人を助けようと集まってきたことです。本当にもう、びっくりするくらい、市民が一体となってこれを乗り越えていこうというエネルギーがものすごく感じられました。
私自身もスリランカに3年住んでいたことがあるのですが、今は停戦状態とはいえ、民族間の紛争の緊張はまだ残っています。でも、この時は、誰だろうとかまわず、困っている人がいたら助けようと、みんなが一気に動いたんですね。
バティカロアのケアのオフィスには、15〜20歳くらいまでの若い人たちが、たくさん来てくれて、ずーっと一日中、お米やお茶、砂糖など生活必需品を詰めたケアパッケージと呼んでいるものを作る作業を手伝ってくれました。
食べるものも水とクラッカーでしのいで、オフィスの床にマットを敷いて寝泊まりして何日間か手伝ってくれていました。
コロンボのオフィスでも、呼びかけをしたらスタッフの友達や家族など50人くらいが集まってくれました。お婆さんから、4歳、5歳の子どもまで、とにかく何かをしたいということで、スリランカ中が「とにかく助けよう」というそれだけの気持ちで動き始めたという気がしました。
目次へ移動 緊急時だからこそ大変 - 物資をとどけるということ
緊急支援のときは、まず水や食糧などが第一に届けられます。人に伝えるときは、「物資を何百個届けました」と書くのですが、それがいかに大変なことかということを、今回、身にしみて感じました。
橋も壊れてしまいましたし、道路もやられてしまいましたし、フェリーは海に飲み込まれてしまったということで、ふつうの交通手段が使えないことが多い。すぐに次の日に食糧を届けなければいけないときは、ジャングルを抜け、デコボコの道路を何時間もかけて行かないとならないわけです。
ふだん、1時間、2時間半かかるところが、8時間、9時間かかるんです。だいたい朝5時、6時に出発しても、着く頃には夕方になっていて、暗闇の中でリストを見ながら物資を配給するということが行われるので、非常に大変な状況でした。
目次へ移動 誰が最も支援を必要としているか
緊急援助というと、テレビでよく見る、物資をヘリコプターから投げて、下で我が我がと他の人をけ落として取ろうとする姿が思い浮かばれると思います。それ自体、私自身疑問を持っていたのですが、数日経って、それほど緊急事態でないときでも、そのような風景が見られました。
前に話したように、いろいろな人たちが助けようという思いで手伝ってくださるのは本当に良いことだったのですが、慣れていない方がやると、例えば物資をトラックの後ろから投げたりするんですね。誰がそのパンをもらえるかというと、一番強くて、一番アグレッシブで、とにかく他の人を押しのけて取ろうとする人たちですよね。
でも、「支援って誰のためなの?」と思ったときに、実は一番弱くて一番必要としている人たちが、パンをもらえないということになってしまうわけです。
ケアでは、とにかく、被災した人たちのところに行って話を聞いて、どういう被害にあったとか、どのくらい家族が亡くなったか、家の被害はどうであるか、またそれだけではなくて、どういう水があるか、食糧が足りているんだったらタオル・石けん・下着などは必要か、寝るためのマットが必要なのかとか、事情によりでニーズが違ってくるので、それをまず把握します。
すぐに必要な食糧、水などのニーズだけでなく、家が全壊して土地所有権の紙がなくなってしまった人たちが、後でどういう権利を主張できるかなどという調査も行います。
もう一つ重要なことは、きちんと支援物資を「手渡す」ということです。物理的に手渡すということもありますが、実際に物資がその人たちに届いているかどうか確認することがすごく大事なことです。
こういう緊急援助の場合、とにかく量をさばこうとする。今回見ていて、大量の物資をそのまま避難所に置いて「じゃ、配っておいてね」と去ってしまう方が多かったんですね。そうすると、例えば、そこの村長さんのところにそれが全部貯め込んであったとして、村長さんがいい人なら良いのですが、もしもお金儲けを考えていたら、それを売って自分の利益にしてしまいます。
届けた人は、それが貧しい人に渡ると思ってそのまま去ってしまうのですが、それは、責任を持って最後まで見届けるということをしていないのです。
実際に受け取った人がきちんとサインしてくれて、証拠として残すことが必要です。そうすると、後で記録を見て、誰にどれくらいのものがどういう風に渡ったかということが確認できます。
目次へ移動 支援を待っているだけではない被災者たち
被災した人たちも、生きていく力は内面的に持っています。例えば、子どもでもけがをしていなければ、労働力となります。津波で破壊された建物のがれきや散乱物のクリーンアップ作業を、子どもたちが率先してやっていました。
コミュニティがお互いに助け合おうということで、共同で食事をつくったり、家を建てたりする手伝いをしていました。
漁師さんは、ふたたび海に出ようとしていました。津波が起きてすぐは、(皆さんご存じと思いますが、)みんな魚を食べたがりませんでした。何千人、何万人の方が亡くなった海で採った魚は余り需要がなかったんです。
でも、だんだん回復して、マーケットが始まって需要もでてくると、魚を釣る人だけでなく売る人の職業も確保されてきます。支援をしようと思ったときに、物をあげるのではなくて、こうした人々が立ち直る支援をする方がいいんですね。自分で立ち直るために、その人の職業を支えることが大切なのです。
目次へ移動 平時の自立支援が、緊急時の力になる
ケアのプロジェクトとして、東海岸の方でもともとキャパシティビルディングのプロジェクトをやっていたので、そこのチームリーダーとディスカッションをして、今どういう状況か聞いてみました。
コミュニティ銀行を運営している女性グループのチームリーダー・ガウリーさんは17歳。1年半くらいケアのプロジェクトに関わっています。
彼女は、「これまで何万ルピーか貯めていたお金が全部流されてしまい、グループのひとりが亡くなってしまったけれども、私たちはこのプロジェクトを通して、男性に頼らずに自分で生きていくことを学んだ。だから、もう一回お金を貯め直してもう一回やり直せる」と言っていました。
無農薬栽培の技術などを学んでいた農業チームのリーダー・バラタラジャル君は22歳。彼に聞くと、「みんなで耕していた畑が全滅してしまって、今年は収穫できない。でも、自分たちにはノウハウがある。だから自分たちでやり直していく自信がある」と、きっぱり言いました。
緊急援助の現場だけをとらえると、大きな災害があって、支援が入って...というプロセスしか見えてきません。
けれども、常日頃、開発支援という形でプロジェクトをしている時に、ものを建てるとかそういうことではなく、人の能力を引き出して高める、ノウハウや技術を身につける、ということをしておけば、こういう大きな災害が起きたときにも、自信をもって自分たちでやり直せるのだと、この時にとても実感しました。
外に頼ることを覚えてしまうと、何かが起きたときに、「もう自分たちは何もできない。助けてくれ」となってしまう。自分たちには能力が身についていると確信すると、何かが起きても自分たちはやり直せる...という自信につながっていくのです。
目次へ移動 生きる力
難民キャンプ(避難キャンプ)をいろいろ見て回って、人々の表情を見ていると、実際に苦しんでいる人たちは本当にいるのですが、子どもたちは無邪気に遊んでいるんですね。こんな大変なことを経験しているのに、何でこんなに笑顔でいられるのだろうと思うのですが、人間というのは本当に生きる力を持っていて、こういう時でもそれが見えてくる。
「被災している人たちがかわいそう」と、私たちが出ていって「あなた達を助けてあげます」というのが、実は彼・彼女たちの尊厳を踏みにじるような行為だなということを感じました。彼らは、自分たちで生きていく、回復していく力を持っています。実際に私たちがやるべきことは、それを認めて、彼らが立ち直っていくための支援をする、それが重要だと感じました。
おとな達も、子ども達も、生きていく力を持っている。それを活かして支えていくことが、国際協力NGOとして非常に重要なことだと認識しました。
野口千歳 略歴
1971 年、アメリカで生まれる。父の仕事の関係で、アメリカ、カナダ、オランダ、シンガポールなどで海外生活を経験。1994年東京大学法学部を卒業。その後、ジョージ・ワシントン大学大学院に入学し、1996年に国際開発学修士を取得。大学院に通いながらワシントンDCで国際開発コンサルタント会社に勤務した後、1996年に世界最大級の国際協力NGO、CARE(ケア)に就職。ケア・スリランカ、ケア・ジャパン、ケアUSA、ケア・ベトナム(副代表)を経て、2004年1月に財団法人ケア・ジャパン常務理事・事務局長に就任。
写真家 ハーシャ ダ シルバ (Harsha De Silva) 略歴
1967 年、スリランカ生まれ。5歳のときに家族とともにイギリスに移住。写真家としてのキャリアはフォトジャーナリズムの世界から。1989年6月には、ロンドンで行われた天安門事件に対する学生の抗議行動を捉えた写真が、ガーディアン紙の一面を飾った。その後、広告/商業写真に活動の場を移す。1991年から 1年間、ロンドンで写真家ジョン・メイソンのアシスタントを務める。92年にニューヨークで活動の後、ロンドンに戻り独立。以後、イギリス、アメリカのほか、スリランカ、ベトナムなどアジア各国で、広告/商業写真、ファッション、社会ドキュメント、旅行写真を撮り続けている。現在、東京在住。
リポート ケア・ジャパン 野口千歳 / 写真 Harsha De Silva (*は、野口千歳)
(編集:Think the Earthプロジェクト 原田麻里子)