埼玉県小川町。有機農業を営む人でこの町の名前を知らない人はいないのではないでしょうか。1971年、日本にまだ有機農業という言葉自体がなかったような時代に、金子美登(かねこよしのり)さんは小川町で有機農業を始めました。今年で36年、彼の営む霜里農場は循環型有機農業の手本となり、行政から個人、若者に至るまで大勢の人が見学や研修に訪れるようになったのです。
食の安全が叫ばれ、ますます注目を浴びる、霜里農場と金子さんを取材しました。
目次へ移動 小川町と霜里農場
東京都心から約60km。埼玉県北部、秩父山脈に囲まれた埼玉県小川町は和紙と酒造りが古くから有名な町です。町に入ると所々に「手漉き和紙」や「酒造」の看板が見られます。どちらも水を豊富に使う産業なので、昔から清流に恵まれた町だったのでしょう。
小川町の駅から南東に3kmほど離れた、田園風景の中に霜里農場はあります。西側には小高い山があり、周りは秩父から流れてきた槻川に囲まれています。農場は田んぼと畑を合わせて3ヘクタール(約9,000坪)。個人で営む農場の規模としては大きい方です。年間で栽培する野菜の種類は60から70品目。もちろん、すべてが完全無農薬の有機野菜です。
霜里農場の代表、金子美登さんが両親から農地を引き継ぎ、有機農業を始めたのは1971年。37年目の今でも金子さんの心に響くのは「自然は完全に循環していること」だそうです。自然は人間の手を加えることなく、完全な循環システムを保っている。だとしたら農薬や化学肥料を使わなくても、その循環の流れの中で作物が作れるはず。 「自然だったら100年かかる循環のサイクルを、人間の手を加えて10年に短縮してやるんです。」それが有機農業の技なのだと金子さんは言います。 実際に霜里農場に足を踏み入れると、そこは自然を利用した循環システムで溢れていました。自然の循環と、長年の努力と研究によって培われた有機栽培の技術、そこに近代ならではのテクノロジーを融合させた場所、それが金子美登さんの農場でした。
目次へ移動 循環の仕組み
目次へ移動 すべては土づくりから
金子さんが、農業で最も大事としているのが、土づくりです。土は生命の源。
「土さえ良いものができれば、あとはおいしい野菜が勝手に育ってくれます。」と金子さん。
農場脇の堆肥場には、堆肥が山のように積まれていました。
家庭から出た生ゴミ、山から持ってきた落ち葉、植木屋さんに貰う木や枝のチップ。そこに家畜の糞尿を混ぜて切り返し(上部と下部を混ぜ、空気を入れることで微生物の動きを活発化すること)を行い、1年以上経過させてから畑や田んぼに撒きます。微生物たっぷりの、農作物に最高の土ができるそうです。
良い土があれば、あとは野菜が育つのを待つだけ。とは言っても、いろいろな難関があります。無農薬と聞いてまず思いつくのは虫と雑草による被害です。 アブラムシなど、野菜作りにとって害となる虫が当然湧くように出てきます。しかし、ほとんどの害虫は正義の味方に退治してもらえるそうです。 害虫が出ても、ちょっと待っているだけで、テントウムシやヘビ、トカゲなど、金子さんが正義の味方と呼ぶ益虫などが勝手に増えて害虫を食べてくれるのです。
天敵がいない虫に限っては人間の手で退治する。もしくは虫が出ない時期を見極めて野菜を作る工夫をする。 「簡単なことですよ。」金子さんはさらりと言います。 農薬を使っても、虫は世代交代が早いのですぐに免疫を持った種類が出現するそうです。しかも生存の為の防衛本能が働き200個の卵を産んでいた種が600個の卵を産むこともある。そうなると、より強く人体にも悪い農薬を薪かねばならないという人間と虫のいたちごっこ、近代農業の悪循環がおきるのです。
雑草はというと、こちらも霜里農場なりの工夫があります。お米の場合は田植え前に二度代掻き(シロカキ・水の入った田んぼをトラクターでかき混ぜること)をした後、水の嵩を増やし、大きい苗を植えることで初期の雑草を抑えます。さらにアイガモに助けてもらうと、もうコナギやヒエに悩まされることは無いのだそうです。
畑も苗の時期に土そのものを自然分解される紙のシートで覆うことでだいぶ雑草を押さえられます。もちろん、それでも雑草は出るので、草刈りはします。
刈られた草は家畜たちのエサとなり、家畜の糞は良質な土として畑に戻ってくるのです。
こうして、農薬や化学肥料を使わなくても、金子さんが長年培ってきた技術を土台に、自然の恵みの中で良い循環が行われているのです。
目次へ移動 家畜たち
金子さんの農場には家族同然に扱われる家畜たちがいます。
牛3頭にニワトリが200羽、アイガモが100羽。3ヘクタールにはちょうどいい頭数だそうです。
刈られた雑草やワラは主に牛に与えられます。野菜のクズや家庭からの生ゴミは鳥たちのエサとなります。
その代わり、牛からは牛乳、ニワトリからは卵を頂き、アイガモは肉となります。もちろん、彼らの糞尿は貴重な有機肥料として畑へと還っていくのです。
すべては一つとして無駄のない循環の流れの中にいます。
目次へ移動 エネルギーの循環
田んぼや畑での循環の流れを確立した金子さんが、次に考えたのはエネルギーの循環と自給でした。石油ショックを体験した金子さんは、いつかは無くなる資源にできるだけ頼らない方法は無いだろうかと常に模索してきたそうです。
目次へ移動 太陽光
母屋の天井には電気を作り出す大きなソーラーパネルがありました。
そのため、毎月の電気代はわずかで、余剰の電気を電力会社に買ってもらうこともあるそうです。井戸水も太陽光エネルギーで汲み上げる仕組みで、家畜を囲う電気柵もソーラー電気で動いていました。
また、太陽の光を十分に利用しようと考えられたガラス温室もあります。温室を一面ガラス張りにすることによって、冬でもなかなか暖かいそうです。
畑には南の方角を向いたプラスチックの巨大チューブが何本も立てかけてありました。これは温水器と呼ばれ、太陽の熱でチューブ内の水をお湯にする装置で、お湯は台所やお風呂で利用されています。
目次へ移動 薪ボイラー
間伐した木や、枝打ちされた枝、倒れた木、建築廃材など、田舎ではとにかく薪が手に入りやすい。これを活かさない手はないと、設置したのが母屋の脇にある薪を使ったボイラーだそうです。 薪を燃やして、お湯をつくるというシンプルな構造。できたお湯はお風呂と、床下のパイプを巡る仕組みになっていて、冬季は床暖房の役割を果たしています。
目次へ移動 バイオガス
霜里農場では、なんと人間の糞尿も循環の流れにいるのです!
トイレから汲み取った人間の糞尿は地中に埋められたバイオガスの発酵層に投入されます。空気がないところで嫌気性発酵が行われ、バクテリアに分解された糞尿は液体肥料とメタンガスに変換されます。液体肥料は畑や田んぼへ、メタンガスは料理用のガスとなります。
目次へ移動 バイオディーゼル
3ヘクタールの広大な田んぼと畑。耕耘機とトラクターが必要です。ここにも霜里農場ならではの工夫がありました。トラクターは天ぷら油などの廃食油、バイオディーゼルと呼ばれる燃料で動いていました。ガソリンやディーゼル燃料よりも、植物由来のこの燃料の方がずっと自然に優しいそうです。
目次へ移動 モッタイナイが一つもない
霜里農場にいると、これ以上削るものや無駄なものは一切無いように感じられました。 「循環のことで考えられることは、とにかくすべて実践している」と断言する金子さんの言葉そのもの。まさしくすべてが自然の力を借りて、うまく循環していました。 ここはまるで、循環システムの実験場のようでした。
「これからは、霜里農場で実現できたことを面へと広げていきたいと思っています。1農場単位から集落単位、町全体での循環システムを創りあげるのが課題なのです。」 金子さんのいる小川町なら、それができるのではないでしょうか。日本の農村の未来モデルを垣間見た気がしました。
目次へ移動 これからの有機農業
目次へ移動 直感力
1971年、日本で有機農業研究会が発足したときに、30名の立ち上げメンバーの中に、当時22歳の金子さんがいました。有機農業という言葉が、ほとんど存在すらしなかった時代です。
有機農業をはじめたきっかけを振り返り、「直感力だねぇ!」と金子さん。
1970年にコメの減反政策が始まり、主食であるコメを国が大事にしなくなったといいます。コメを輸入しなければならない時代が、いつかやってくるだろうと金子さんは感じたのです。また71年は公害元年とも呼ばれ、工業の発展と共に、様々な公害が社会問題化していました。
「とにかく安心で安全な食べ物をつくり、環境を守り育てる。そうすれば、きっと、誰か同感する人が支えてくれるに違いない」金子さんはそう直感し、有機農業を始めました。
当時日本には約2,000万の世帯がありました。対して農業従事世帯は約500万。1農家が4世帯分の農産物をつくれば日本は有機農業でも完全自給ができると思ったのです。
「まずは10世帯分の作物を有機農業でつくろう。」
そこで始めたのが、当時としては非常に先進的だった提携型農業です。特定の世帯と契約をして、農産物を直接届ける手法。最初は試行錯誤で問題も起きましたが、今でも30件の世帯と提携を続けており、これが霜里農場の一つの核となっています。もっとも、現在はあまりに人気が高く、霜里農場と提携契約を結ぶのは不可能に近いのですが・・・
目次へ移動 30年
小川町で有機農業を始めた当時を振り返り「壁も壁だらけ、壁しかなかったよ」と金子さんは言います。村からも農協からも、周囲の人からも変人扱いされ続けたそうです。
行政は何も教えてくれない。ノウハウも教本もどこにもない。有機農業の技術や方法は、すべて試行錯誤しながら数少ない仲間と一緒に、自らが生み出していかねばならなかったそうです。
世間に認められるまでにかかった時間は30年!だそうです。コツコツと、ひたすら自分の信念のままやってきて、ようやく周囲が変わってきたのはごく最近のこと。
その間、金子さんには数多くの有機的と呼ぶ仲間やネットワークができました。最初は小川町でただ1人の有機農業者だった金子さんですが、噂を聞きつけて、弟子や研修生となる人がやってきたのです。彼らはやがて小川町や日本各地で有機農家として独立します。その彼らにも弟子ができ、その弟子が独立する。こうして、今では小川町だけでも25件ほどの有機農家が育ったのです。
今でも霜里農場は年間7〜8名の研修生を受け入れています。取材日には日本人4名、韓国人2名の研修生がいました。
「人間の最も基本である食を通じて生計を立てていきたい。それも安全な有機野菜で。」研修生の1人が言いました。休日もあまり無く、労働時間は太陽が出ている間という決して楽ではない状況の中で、充実していると誰もが感じているようです。20代〜30代が多く、彼らの目線の先には明るい未来が見えるような気がしました。
目次へ移動 地域と共に
理解されるのに30年かかったという霜里農場は地域の中で、新たな局面を迎えています。これまでは食に敏感な都会からの注目が高かったのですが、周辺地域の人も小川町の有機農業に目を向け始めたのだそうです。
5年ほど前から商店街に誘われ朝市に作物を出すようになり、そこで繋がりができた商店街の人とジャガイモを一緒に作って収穫祭を行うようになりました。
これまでも加工食品を地域の専門業者と作っていましたが、地域とより繋がることで、その種類も増えてきました。今では霜里農場がつくった農産物は、醤油や豆腐、日本酒納豆、乾麺、ソーセージへと加工され、地域ブランドとして売り出されています。
なかでも豆腐は売れ行きが好調で、今では霜里農場だけでなく、周辺の集落全体で5ヘクタールの大規模な有機大豆の栽培が行なわれるようになったのです。
地域集落の人も、小川町の人も、これからの有機農業の持つポテンシャルに気付きつつあるのだと思います。 「有機農業で地域興しが行われたモデル地」として、小川町の名前が全国に響くのもそう先の話ではなさそうです。
目次へ移動 気候変動と霜里農場
順調そのものに見える霜里農場にも、異常気象と気候変動の影響が起きています。 「15年前から気候が読めないようになった。」と金子さんは言います。
100年に1度と言われた冷害、80年に1度といわれた雹(ヒョウ)、そして今年は夏が1ヶ月長かったそうです。
昔だったら、老人に話を聞けば、その土地の天気を知ることができましたが、今ではあまりにも異常気象が頻発し、昔の気候が当てにできないそうです。
天候に合わせて多種多品目栽培を行っている金子さんは、ほとんどの気候差に対応してきました。しかし今年の夏の異常な猛暑を、「今年の夏はどうしようもなかった。30年以上有機農業を続けて構築してきた論理が覆されるような異常な気候だった」と言います。
ただ、金子さんには天地の変化を読んで、どう対応するかの技術があります。今年の異常気象の影響を知れば、来年にはすぐ対応ができるのだそうです。
最近の温暖化や気候変動で、科学に頼った日本の近代農業はさらに打撃を受けていくでしょう。温暖化が進めば進むほど、皮肉なことに金子さん達の有機農業が存在感を増し、光り輝いていくのではないでしょうか。
目次へ移動 これからの日本の食
「今後は食とエネルギーが日本の最大の問題になってくる。」
金子さんは危機感を抱いています。確かに私たちは大きな危機に直面しつつあるのだと思います。日本の食糧自給率はたったの39%(カロリーベース)しかありません。しかも農業従事者の多くは65歳以上の高齢者なのです。
生命の基本となる農業を、先進国で最も大事にしてこなかった国、それが日本だと、これまで金子さんは言い続けてきました。本来なら農業のうえに成り立つべき工業なのに、工業だけが常に重要視され続ける特異な国なのだ、と。
一方、うれしいニュースも聞くことができました。この数年で有機農業の就農希望者が爆発的に増えているというのです。農業従事者の減少が鈍化し、新規就農者が増えてきたという農水省のデータもあります。
さらに、昨年(2006年)の暮れには「有機農業推進法」が成立し、これからの有機農業には、かなりの追い風が吹くと金子さんは予想します。
「10年後、有機農業で日本の自給率が50%にあがる日が来るかもしれない」金子さんは明るい希望を持っています。
「日本という国は明治維新・敗戦というように、常に180度の変革を遂げてきた。農業の世界でもきっとそのような変化がおきるに違いないよ。」と。
金子さん達が、30年以上かけて安全で環境にやさしい食への土台と道しるべを築いてくれました。
それでは、私たちに一人ひとりに何ができるでしょうか。
身近な場所に農地があれば、作物を少しでも自給するのもいいでしょう。思い切って有機農家を目指すのもすばらしいと思います。さすがに、そのハードルは高いと感じても、まだできることはあります。それは選択というアクションではないでしょうか。
季節ごとの旬の野菜を選ぶ。国内産、それも近くの産地でとれたものを選ぶ。産地が自分の家に近ければ近いほど、作物の輸送にかかるエネルギーを抑えることができ、国産を選べば国内の農業を支えることになり、強いては国内自給率を上げることに繋がります。
そしてもちろん、価格が高くても環境を守り、体にも安心な有機野菜を選択する。
自然の恵みを尊重しながら、すべてが循環する霜里農場は理想郷のような場所でした。これからの日本の食と環境を考えると、金子さんや有機農家の存在はとても大切です。ただ、それと同じくらい重要なのは消費者としての私たち一人ひとりの意識でもあるのだと、霜里農場を訪れ再認識したのでした。
取材・執筆・写真:佐々木拓史(Think the Earthプロジェクト)