『続・百年の愚行』出版に続き、2015年8月22日から9月27日まで東京・千代田区の3331 Arts Chiyodaで「百年の愚行展」を開催しました。同展では写真や映像の展示に加え、「人類が愚行を繰り返さないためにどうすべきか」をテーマに毎週金曜日にトークイベントを行いました。 アメリカ同時多発テロ発生からちょうど14年目となる9月11日に、スペシャルトークとして『百年の愚行』の寄稿者であり、小説家・詩人の池澤夏樹氏と、『百年の愚行』シリーズ編著者の小崎哲哉による対談が行われました。今回の地球リポートは、この対談の採録をお届けします。
目次へ移動 13年の間になぜ狂気は加速したのか
小崎 2002年に、池澤さんにも寄稿していただいた『百年の愚行』を刊行したとき、副題は「One Hundred Years of Idiocy」としました。「idiocy」の形容詞は「idiot」で、「お馬鹿さん」とか「まぬけ」というような意味合いです。それを『続・百年の愚行』では「One Hundred Years of Lunacy」と「lunacy」に置き換えました。日本語タイトルでは同じ「愚行」ですが、後者は「頭がおかしい」というような意味で、言い換えれば「百年の狂気」ですね。1冊目を出してから2冊目を出すまでに12年、いままでに13年が経過しているわけですが、僕の印象では、その間にどんどん狂気の度合いが深まっていて、しかもますます止めようがなくなっている気がします。
池澤 僕らが愚行を積み上げてきた中でも、世界全体で見て今日にいちばん影響を及ぼしているのはイラク戦争ですね。遡れば9.11。そういう形で世界が崩壊した。イラク戦争のとき、僕はその4ヶ月前に遺跡を見る目的でイラクを旅行しているんです。その間にイラクの人たちと仲良くなって、アラブ圏でいちばん好きな国になった。だから彼らの上に爆弾が落ちたら嫌だと思って、大急ぎで『イラクの小さな橋を渡って』という本を書いて出版し、講演会にも、好きでもないテレビにも声がかかればすぐに出て、ひとり反戦キャンペーンをやったんです。サダム・フセインの圧政下に呻吟しているはずのイラク国民は、アメリカ兵を歓迎しないだろうし、アメリカはイラクの社会を壊してしまうだろう。アメリカの言う「大量破壊兵器」なんて無いんだ、と。結果としてイラクが壊れて力の空白が出来て、それが波及していまのイスラム国になった。
小崎 IS(ISIS)ですね。
池澤 イラク戦争について、ブッシュは退任時に反省の弁明を述べたけれど、アメリカを支持した日本政府はいまだに何の反省もしていません。それは間違っていると誰かが言っても、避けられないまま突き進んで、結局それが現実になってしまう。愚行とはすべてそういうもので、このパターンはずっと変わっていないし、それがこの13年間だったと思いますね。
小崎 池澤さんがパリに住んでいらした2004年に、極端なイスラム嫌いで知られるテオ・ファン・ゴッホという映画監督が惨殺されましたよね。それから11年経った今年の1月に、パリでシャルリー・エブドの襲撃事件が起こりましたが、ちょうどこの日、人気作家のミシェル・ウエルベックが『スーミッション』という小説を出版しています。ファン・ゴッホ殺害の直接的な引き金となった映画『サブミッション』と同じ意味のフランス語で、日本語で言えば「服従」。イスラムという言葉の原義を英仏語に訳すと、この語になるそうです。『スーミッション』は、次のフランス大統領選でムスリムが当選し、フランスがイスラム化するという内容で、刊行後ウエルベックは、『悪魔の詩』を書いたサルマン・ラシュディのように、警察に24時間警備されています。池澤さんはファン・ゴッホの事件のときにエッセイを書いていらっしゃいますが、フランスにおけるイスラム嫌いの理由は何だと思いますか。
池澤 フランス革命以降、フランスは自由、平等、友愛の3つを掲げ、国民はすべて平等だということを国是としてきました。それなのに一方で植民地を持っている。植民地の人間というのは2級の国民ですから、平等の原則に反するんです。結局紛争の挙句、最後まで手放さなかったアルジェリアの独立を認めたわけですが、そうするとアルジェリアの人たちが働きに来て、安い賃金で下級労働者としてフランスの労働マーケットを下支えする構図が出来た。ところが経済が悪化すると、仕事を奪う邪魔者扱いされる。また2世になると、彼らはフランスで生まれているんだから、当然自分はフランス人だと思っているけれど、現実には経済的なポジションなどに歴然と差別が存在します。さらに宗教が絡んで、フランス人は政教分離法で政治と宗教を完全に分けたけれど、イスラム移民の人たちにとってのイスラムは、フランス人にとってのカトリックとは違うんですよ。彼らにとって政治と宗教は切り分けられない。例えば、イスラムの女性は髪の毛を見せて外を歩いてはいけないんです。それは性的なアピールになるから。しかし、小中学校の女子生徒が頭にヴェールをして登校すると、自分がムスリムであることを必要以上にアピールするから、学校に来るときは外してほしいとフランス側は言う。すると、「とんでもない。あなたは裸で外を歩けるか?」というような反論が出てくる。この違いの問題なんです。
目次へ移動 ジャーナリズムのあり方と変化するメディア
小崎 宗教的な対立以外にも、様々な愚行や狂気が増えたように思います。
池澤 狂気の度合いが深まった原因のひとつに、金融資本が無茶苦茶なことをするようになって、行く先々で純利を吸い上げては国を潰していくという現状がある。それはギリシャが良い例です。富の偏りがいよいよ甚だしくなって、それに対する批判の声がジャーナリズムから上がらなくなってきているから、反論が世に広がっていかない。トリクルダウン理論、つまり富める者が富めば、そのお金はだんだん下へと流れて末端まで潤うという説がありますよね。
小崎 ネオリベや安倍政権が言っていることですね。
池澤 でも末端まで行かないんですよ。流しそうめんと一緒で。総論として、良くなったことは何もないような気がします。ひとつジャーナリズムに関して言えば、難民の子供が死んだ写真をどう見るかという問題がある。日本のメディアは死体をぼかすんですよ。それは、見たくない人が見てしまうと苦情が来るから。じゃあ、これが現実だと思って見るべきだとすれば、見ることを課せられることによって感覚が鈍化しはしないか。あるいは、見ることによって自分はこの子に同情するいい人間であるという偽善に陥りやしないか。1990年代にケヴィン・カーターという南ア出身のジャーナリズム写真家がスーダンの難民キャンプのすぐ近くで撮った写真が、ピューリッツァー賞を取ったんです。痩せさらばえた幼い女の子がうずくまって、その後方にハゲワシが1羽地面に降りている写真で、見方によっては瀕死の子供をハゲワシが狙っているようにも見える。実際にはそういう状況ではなかったことが後でわかるんですが、ケヴィン・カーターのもとには写真なんか撮っていないでなぜ助けなかったんだと批判の声が殺到し、彼は授賞式の数週間後に自殺しました。非難した人たちは、自分はこの写真家に対して抗議をする正義の味方だという妄想を喜んだんです。2004年に日本人3人がイラクで人質になったときも、政府とメディアが結託して、勝手な行為で国政を乱す連中だとキャンペーンをし、国民は見事にそれに乗せられて、帰ってきた彼らに対して強烈なバッシングをした。彼らはイラクで辛い目に遭っている人たちを助けるために行ったのに、自分たちにできないことをやった彼らを褒めるのではなく、偉そうなことをしやがってという反感の心理を生む。これは山の分水嶺と一緒で、そういう一線が心の中にあるんですよ。それを政府とメディアが操作した。
小崎 一方で、近年はメディアがまったくふたつに割れている印象がありますね。もちろん、いかなるメディアも完全に中立ということは有り得ない。だからこそ複数のメディアの主張を比較して自分なりに判断する必要があると思うんですが、いまは新聞はおろかテレビすら見なくなっている人もいて、わずかなニュースソースに頼ってしまう。イスラエル・パレスチナ紛争のとき、双方の支持派による論戦がツイッターなどのソーシャルネット上で起こったんですが、議論がまったく噛み合わない。なぜかといえば、イスラエル支持派はエルサレム・ポストをはじめとする右のメディアばかり見て、他方、パレスチナ支持派はBBCやガーディアン、ニューヨークタイムズのようなリベラルメディアの報道に依拠していたから。ソーシャルメディアは初期にはみんなが意見を言える素晴らしいメディアだと称揚されましたが、実際は逆だとうことが、通信データの解析で明らかになりました。
池澤 普通の人たちが発信するのは、実は情報でも論理でもなくて、一瞬一瞬の感情なんです。それがあっという間に相互につながり、大きなものになって、ことの流れを決めていく。それは感情だから、地に足が着いていないところもあるわけですが、それに対してこれまで知識人から大衆に述べられていた意見は、一応歴史を参照し、論旨に筋を通したものだった。知識人とは何かというと、王様の顧問であり、つまり主権在民の国では国民の顧問なんですよ。王様にことの理非を伝えようとするんだけど、王様がそれを聞き届けてくれるかどうかは知識人の力の外で、SNSが普及してから王様は顧問の言うことを聞かなくなった。
小崎 SNSって車に似ていると思うんです。僕もその気味がありますが、車に乗ると人格が変わる人っていますよね。運転しながら、普段は言わないような罵詈雑言を吐く。顔の見えない匿名的空間なので絶対に安全ですから。
池澤 SNSといちばん似ているのは国会の野次ですよ。名乗らずにワッと言って、後になって誰だったと探すと、自分じゃないとごまかして、ばれれば頭を下げるふりをする。
目次へ移動 人文系学部軽視の背景にあるもの
小崎 今年、文部科学省は全国の国立大学に人文系学部の規模を縮小するよう通達を出しました。人文系を軽視するのかと大学側が反発し、文部科学大臣はそういう意図ではないと懸命に言い訳していますが、大学人という一流の知識人みんなが読み取っている文章が「誤解」なのだとすれば、それは彼らの文章が下手くそだからでしょう。その程度の文章しか書けないような人たちが人文系を縮小しようとするのは、僕には到底理解できない。
池澤 大学って変なところなんですよ。これとこれを覚えたら卒業です、と言う教授が多いところはたぶん相当ダメな大学で、奇天烈な説を言う教授が多ければ多いほどいい大学です。そうか、いや待て、嘘、それは違うよ......という風に自分の中で議論が始まったら、それは自分に対する教育であり、知的な、面白い人間が育つはずなんです。ところが最近は、教授が奇天烈な説を言って自分で考えてみろと言うと、学生の親が文句を言う。いい会社に入れるような人間に育ててもらおうと思って学費を払っているんだから、変なことを教えないでくれと。お金につながらないことは無駄である。それが国全体の方針になってきているような気がします。そうだとすれば人文系なんて無駄ですよね、理屈こねているだけだから。
小崎 優秀な新聞記者でもあったガブリエル・ガルシア=マルケスが、ジャーナリストを目指す若い人たちに向けて行った講演がありますよね。大学でジャーナリズム系の学科を作るならどんなことを教えたらいいかと問われ、まず学生たちに徹底的に人文科学をおさらいさせること、と言っています。そのすべてが土台になると。それが正しいのだとすれば、日本のお上は、いずれ政府に楯突くような可能性がある輩を育てるのに税金は使えない、と考えているんじゃないか。そういううがった見方をしてしまいます。
池澤 それも目的のひとつでしょう。でも理工系の人たちだけでものを決めていくと、目先しか見ないんですよ。マーケット全体を見て広い意味で考えるのは実は人文系の仕事で、理工系の人たち、技術主義者たちだけではできないんです。原発は理系の考え方。理工系の人たちは、技術の範囲内だけでここをこうやって、ここを手当てすれば大丈夫だと自分をだましていたわけですが、もともとこのマーケットは腐敗しやすいんです。独占で、競争がないから。僕は90年代の初めだったか、東海村の原子力発電所に行って、これはやばいなと思ったんですよ。見た目は立派なんですけど、そこでもらったパンフレットには「厚くて丈夫なコンクリートと鉄鋼の遮蔽により安全に守られています」というような内容の文章があって、形容詞が多すぎると思った。だっていまどき、新幹線が安全です、なんて言いますか? だから、これは言葉で何かをごまかしているな、と。形容詞が多くて動詞が少ない文章には気を付けないといけません。
目次へ移動 新聞の二極化と、それでも根強い影響力
小崎 池澤さんが2年ほど前にお書きになった『アトミック・ボックス』は、まさに原子力がテーマのサスペンスで、いろいろな意味で素晴らしいと思いました。戦後の日本に原爆を開発する国家機密プロジェクトがあったという設定のもと、主人公の女性が、プロジェクトに関わっていた父親から、いまわの際にその証拠となる書類を託される。彼女は国家という巨大な権力組織を相手に、自分が持つ唯一の武器、人間のネットワークを駆使して戦う。これがすごいですよね。しかも誰も死ななくて、読後感がさわやかでした。
池澤 スリラーで面白いのは宝探しか追っかけ、あるいは謎解きなんです。その全部を兼ねようとした場合、じゃあ圧倒的に強い相手は誰かというと、国家権力。中でも警察は、僕らの国で唯一の合法的な暴力装置です。警察はピストルを所有しているし、いまの時代は監視カメラやコンピュータで個人の行動も追跡できる。そんな中で彼女が持って逃げる謎は何か。国が血眼になって追うような国家機密で、しかもアメリカをはじめほかの国も絡んでくる、そういうものは何かといえば、核であると。日本がこれだけ原子炉を動かしているのはプルトニウムを欲しいからで、大量に備蓄していますよね。
小崎 主人公を助ける人が何人か登場しますが、真っ先に出てくるのが左寄りの新聞の記者。そこにいまの世相が切り取られていると思いました。つまり、あらゆるマスメディアは右か左かにすっぱり分けられ、しかもその溝がどんどん広がっている。
池澤 日本にそういう計画があったという超特ダネを手に入れた新聞社はどうするか。出すべきかどうか、社内で侃侃諤々議論するんです。それは簡単なものじゃないですよ。フライングしたらまずいわけだから。全部脇を固めた上で判断するものであって、その判断は、それこそ人文系の血なんですよ。
小崎 いまは新聞やテレビなどのマスメディアが凋落したと言われていますが、僕はいまだに新聞が世論を引っ張って、ある種のメタメディア的な位置にいるんじゃないかと思っています。例えば、東日本大震災が起きた約1ヶ月後に東京都知事選がありました。原発事故が起こる前は現職の石原慎太郎知事が圧勝という下馬評だったけれど、事故後の脱原発派は、これで政治の波が変わり、石原知事は負けるだろうと言っていた。僕もそう思っていましたが、ふたを開けてみると石原さんの圧勝です。振り返ってみると、事故の後、マスメディアは最初の内、推進か脱原発か迷っていたと思うんです。池澤さんがおっしゃったように、社内で侃侃諤々する時間が必要だった。具体的に言うと、リベラル紙の筆頭といわれる朝日新聞は、3.11以前は明らかに原発推進派でした。事故後もしばらくはその姿勢が続いていたんですが、4月下旬に社説が一発出て、がらっと変わった。その後は明らかに反原発というスタンスを取るようになって、以降テレビや週刊誌などでは、脱原発派が少しずつ優勢になってくるんですね。都知事選は確かその10日後くらいで、朝日の「転向」はちょっとだけ遅すぎたと思います。2週間早くその決断を下していたら、もしかしたら選挙の結果は変わっていたかもしれない。いずれにしろ、新聞が何かを言うと、他のメディアに影響し、ワイドショーや週刊誌で取り上げられる。その結果世論が変わるケースはこれまでにもあったし、これからもしばらくはあるんじゃないかという気がします。
池澤 新聞は、すべてのニュースの、あるいは状況分析と意見のもととして、ジャーナリズムの基礎にあると思います。大切なのは、それが政府に賛成か反対かじゃなくて、自立しているかしていないか。いまの読売、産経、NHKは政府にすり寄っているでしょう。批判すべきこともしないし、都合の悪いことは批判以前にニュースにしない。どの立場に立ってもいいけど、自立してほしいですね。
目次へ移動 愚行をこれ以上重ねないために
小崎 先ほどガルシア=マルケスがジャーナリズムには人文科学が必要だと説いた話をしましたが、ジャーナリストの育成と政治家の育成は、実は鏡の表裏、というよりも、むしろ同じものなんじゃないかという気がするんです。選挙制度の改革や議員資格の試験実施というのは、そう簡単にできることじゃないですよね。とすると、時間がかかってもいいから、本当に真っ当な人材を育てていくことでしか根本的な解決はありえないんじゃないか。そのための機関として、松下政経塾のような私塾を作り、本当に必要な常識と教養を備えた人を育てていくことってできないでしょうか。
池澤 そういう私塾を作ることはできると思いますが、そこで学んだ人が議員になるのは難しいと思います。いまは政権党が公認するのは、従順で言うことを聞いて、地方地方でふわっとした人気があって、いったん議員になったら陣笠で何の不満も持たない人ですからね。というか、次の選挙にも出たいから、上の言うことに絶対反対しない。だって野田(聖子)さんなんて、この間の自民党総裁選でたった20人の推薦人を集められなかったんですよ。だからみんなが言っているのは、自民党は本当に変わってしまったと。かつてはもっと雑多な連中がいて、それなりに元気だったんだけど、いまは自分のポジションを守るためにびくびくものだから、選挙制度なんか手を加えるはずがない。いまのところ、塾を作るのは遠大な計画としてはいいと思います。しかし、目前に対しては何の効果もない。要するに、アベノミクスが大失敗に終わって、みんなが悲惨なほど不況になって、あいつじゃダメだとなったときに、次に誰が出てくるかですよね。
小崎 そういうことなのかなと薄々思っていたんです。というのは、議員資格について調べていて知ったんですが、国会議員政策担当秘書の資格試験というものがあるんですね。ほぼ公務員試験に準じるものだそうですが、すごくいい問題ばかりなんですよ。こういう状況の中で日本はどうしたらいいと思うか、論文に書かせるんです。状況というのは、例えば食料自給率や少子高齢化の問題だったり、米軍が地球上のどこにどれくらい兵力を置いているかであったり、それこそ原発の廃棄物のデータだったり。たしかにこれだけわかっていれば、真っ当な政治ができると思うんです。ただこれは、政治家本人じゃなくて、秘書が受ける試験なんです。しかも、この試験を実際に受ける人は非常に少ない。なぜかというと、秘書になりたいという本人には申請資格がなくて、秘書を抱えることになる政治家の申請しか受け付けないから。ところが政治家たちは、政策能力よりも選挙対策に長けている人を手元に置きたい。そのために受験者はほとんどいないという状況らしい。せめて試験の内容を、親分である政治家が読んでくれればと思うんですけど。
池澤 今日、僕はいろんなことを言いましたが、いかなる建設的な提案もしていません。できません。状況を読んで、分析して、誰が、どこで、どう間違えたか。9.11のテロで攻撃を受けたアメリカ国民は怒り狂い、その怒りの感情を利用してブッシュはイラクを潰した。それは分析できるし、あの時点ではブッシュは国民の感情を代表する優れた政治家だったのかもしれない、アメリカ人にとっては。しかし長い目で見れば、それは大きな間違いだった。ということも、振り返れば分析はできます。だけど、この先愚行を積み上げることを、どうしたら止められるか。この大問題に対して、僕も含めて誰も妙案なんかないんです。ただ、これじゃダメだ、またこうなってしまうかもしれないと思い続けて、何か策はないかと考えるしかない。考え続け、不断に思いましょう。
小崎 最後にひとつだけ蛇足めいたことを言うと、僕はそれでも何か希望を持ちたいと思っているんです。そのヒントのひとつに、いま、池澤さんがやっていらっしゃる日本文学全集の個人編集があると思うんですよ。
池澤 世界文学全集は読んできたから何とかできたけど、日本文学は何も読んでいなかったから最初は断ったんです。ところが3.11があって、それから1年くらいひたすら東北に通って、惨状の前でいろいろ考えている内に、我々は昔からいままで何を考えて生きてきたんだろうと気になった。日本人というものとちゃんと向き合うには、自分の場合はやっぱり文学だから、日本文学を読もうと。いま、毎日必死で勉強しています。
小崎 池澤さんにして、そうやってまだ新しいことを吸収して、それを何かの形にするということを続けているのがすごいですね。しかも、それは「個人編集」です。池澤さんというひとりの文学者が、匿名ではなくきちんと名前を出して、責任の所在を明らかにしながら作っていらっしゃる。政治学者の丸山眞男さんが、民主主義というのは不断の努力と運動が必要で、続けていかないとなくなっちゃうから進行形でやるんだ、という意味のことを言っていましたが、そういうことを僕たち一人ひとりが池澤さんのように何らかの形でやっていけば、もしかしたらどうしようもない世の中が少しは変わるかもしれないという気がします。
いけざわ・なつき
小説家、詩人。1945年、北海道帯広市生まれ。小学校から後は東京育ち。以後、多くの旅を重ね、3年をギリシャ、10年を沖縄、5年をフランスで過ごし、現在は札幌在住。87年『スティル・ライフ』で芥川賞受賞。その後の作品に『南の島のティオ』『マシアス・ギリの失脚』『花を運ぶ妹』『すばらしい新世界』『静かな大地』など。近作に『終わりと始まり』『氷山の南』『アトミック・ボックス』、東日本大震災に関わる著作に『春を恨んだりはしない』『双頭の船』などがある。2007年から河出書房新社より『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集』全30巻を刊行し、10年度朝日賞受賞。現在は同シリーズの『日本文学全集』全30巻の編集に取り組んでいる。
おざき・てつや
1955年、東京生まれ。『続・百年の愚行』編著者。和英バイリンガルのカルチャーウェブマガジン『REALTOKYO』および『REALKYOTO』発行人兼編集長。89年に文化情報誌『03 TOKYO Calling』(新潮社)の創刊に携わり、新潮社を退社後、インターネットワールドエキスポ1996日本テーマ館「センソリウム」、愛知万博テーマ普及誌『くくのち』、ウェブマガジン『先見日記』のエディトリアルディレクター、現代アート雑誌『ART iT』の創刊編集長を務め、CD-ROMブック『デジタル歌舞伎エンサイクロペディア』、写真集『百年の愚行』などを企画編集した。京都造形芸術大学大学院客員研究員。あいちトリエンナーレ2013パフォーミングアーツ統括プロデューサーも務めた。